「教育学部・今は昔物語」(3)
〜三重県女子師範学校の巻〜
同窓会長 作野史朗(学芸学部 7 期 1 部乙類卒)
明治5年に近代学校制度が始まった。三重県と度会県の両県において小学校教育が行われるようになったのは、明治6年である。同年12月現在における小学校数は、両県の合計で、公立28校、私立75校、男児の就学率44.1%、女児の就学率16.2%という状況であった。明治9年の両県合併後、県として正規に統計を取り始めたのは明治12年で、このとき就学率は男児57.0%、女児23.2%である。
小学校教員については、明治12年まで正式の統計はないが、明治11年までに山田師範学校、師範有造学校及び合併後の三重県師範学校の卒業生は、同窓会名簿では、合計で289名に過ぎず、女性卒業生は0である。統計を取り出した明治12年に、有資格教員(訓導)男性922名、女性24名、無資格教員(仮教員、助手、補助員、授業生などといわれ、年代により呼称は異なっている)は、男性763名、女性16名となっている。有資格教員数が師範学校卒業生を上回っているのは、明治7年から実施された検定試験で資格を取得した教員がいたためである。女性教員については、有資格者・無資格者とも殆どが裁縫教員であった、と推測される。この年、公立小学校は773校、私立小学校は8校になった。
三重県の統計では、一般教科を担当する女性の有資格教員(訓導)は、明治20年までは0である。明治11年の文部時報によれば、三重県師範学校に女生徒1名が在学したとあるが、卒業生名簿には記載がなく、詳細は不明である。明治15年になって、三重県師範学校に女生徒3名が入学する。三重県士族・山高(吉田)とみ、三重県平民・青木ふゆ、山口県士族・長谷川ひさ、である。山高(吉田)は明治16年に三重県師範学校を卒業後、官立の東京女子師範学校(後の女子高等師範学校、東京女子高等師範学校、現お茶ノ水女子大学)に進学し、明治20年同校卒業、三重県訓導となった。三重県統計で明治21年に女子有資格教員1名とあるのは彼女を指す。青木は明治16年に、長谷川は明治17年に、三重県師範学校を卒業したが、教員になった形跡は無い。明治23年、三重県尋常師範学校(明治23年当時の正式名称)に3名の女性見習い生が入学し、附属小学校で2年間授業練習を行ったとされているが、卒業生名簿に記載は無く、教員になったかどうかも不明である。女児の就学率が増加し、小学校における女性教員の必要性が高まり、女性の向学心の向上もあって、明治34年に三重県師範学校は女子部を設置した。身分制限はあったものの、応募者は60名で、この中から40名を選抜して入学させた。彼女らの年齢は15歳から24歳で、平均年齢は17歳であった。三重県におけるこの年の就学率は男児95.3%、女児83.1%である。NHKの朝ドラ「あさが来た」で取り上げられた日本女子大学校は、この年に創設されたが、今でいう各種学校の扱いであった。この頃、女性の高等教育機関は、官立の女子高等師範学校(前述の()書き参照)のみで、準ずるものとして他府県に県立の女子師範学校数校が設置されていた程度であったから、日本女子大学校の創設は画期的なことであった。
明治35年、三重県知事・古荘嘉門は、女子師範学校の必要性を強く唱え、三重県議会に対し、女子師範学校設立費用として、明治36年度予算に5万4,907円75銭を盛り込むよう要請した。総予算が96万9,099円26銭であったからこの出費は大きく、県議会では調査委員会を設置して審議したが否決された。それにも関わらず、知事は県議会本会議に上程、当然否決されたが、知事は時の内務大臣に要請して、強引に女子師範学校設置を推し進め、明治37年の三重県女子師範学校設立を見たのである。このようなことは現代では有り得ないことであるが、当時は「・・・知事は、重要かつ緊急な事項については、主務大臣の指揮のもと、実施できる・・・」という趣旨の法令があったため可能であった。因みに、この年の男児就学率97.4%、女児就学率91.1%である。前述の日本女子大学校が、文部省から正規の私立専門学校として認可されたのもこの年で、奇しき一致というべきか。
予算執行が国により認められ、設置場所の選定に入ったが、久居町と亀山町とが名乗りをあげ、紆余曲折の結果、亀山町の、現在は亀山東小学校のある場所に決定した。この地の南端に「陰涼寺山」と呼ばれる小丘陵がある。眼下に鈴鹿川が流れ、関西本線の列車が走り、はるか右手に経が峰、左手に伊勢平野を望む絶景ポイントである。陰涼寺山には三つの丘があり、夫々に数本の松が生えていた。そのうちの一本は「根上り松」といわれ、女子師範生達は、この山に登り、松の根元で友と語り、故郷を偲んだ。女子師範数え歌に、
「二つとや、ふるさと離れた恋しさに、汽車見て泣いた山の上山の上」
と歌われているように、女子師範生の心の依り所であった。同窓会名も「陰涼会」と名付け、その活動は、教育学部同窓会の中にあっても、平成の初期まで独自の活動を活発に展開した。この根上り松は、昭和40年代に入ると勢いが衰え始め、ついに枯れてしまった。教育学部同窓会では、根上り松の幹を輪切りにし、根の一部を台にした大きな「衝立」を作った。この衝立は、現在でも亀山東小学校の体育館兼講堂のロビーに飾られ、訪れる人々に往時を偲ばせてくれている。当時の三重県女子師範学校の入学選抜の状況は次のようである。身分制度があったため、定められた身分のもので、高等小学校(後の尋常高等小学校高等科、国民学校高等科)卒業生のうち、各学校で1番~3番の者が応募可能であったから、応募者は才媛ばかりで、難関であった。入学選抜は二段階制で、応募者はまず郡または市で行う予選試験を受け、合格者のみ師範学校で行う選定試験を受けることができた。合格者名は出身郡・市長に通知され、出身郡・市の「誇り」とされた。入学選抜方法は時代とともに少しずつ変わっていったが、身分制度は変わらず、本科一部生(小学校や国民学校の高等科からの入学者)については、各学校で1~3番のものが応募できるということも変わらず、戦後の民主国家になるまで続いた。これは男子の三重県師範学校でも同様であった。
明治37年3月19日、沖縄県師範学校長・生駒恭人が三重県女子師範学校長に発令され、4月9日に着任した。入学式は三重師範学校からの女子部分離式を兼ねて、校長不在のまま、4月1日に行われた。5月1日、亀山町に附属小学校校舎と寄宿舎が完成したので、本館は工事中ではあったが移転した。全寮制で学費や寮費も給付されたが、学業・生活とも大変厳しい規律のもとに置かれての女子師範学校のスタートであった。生駒校長は、教員や生徒から慕われた名校長であったが、在職2年6か月で病没。2代目校長に三重県立女学校校長の秋鹿見橘が着任したが、教員との折り合いが悪く、校長排斥事件が勃発し、在任9か月で転任、学校は平穏に戻った。
三重県女子師範学校校門の門柱
(亀山東小学校にて)
在りし日の根上り松
(三重大学教育学部創立百年史より)
根上り松から作られた衝立
(亀山東小学校にて)
「五万本杉苗うゑし生徒らが山をとひきぬみな母となりて」
杉本 一教授の歌碑
(伊賀市柘植・都美神社にて)
昭和9年、本館玄関脇に、天皇・皇后両陛下の御真影奉安殿が竣工した。この頃から、日本の学校は、急速に軍事教育の濁流に呑み込まれていくことになり、女子師範学校も例外ではなかった。昭和18年、三重県女子師範学校は三重県師範学校と合併して専門学校程度に昇格し、官立の三重師範学校女子部となり、戦後の三重大学へと繋がっていくこととなる。
(三重大学名誉教授・学芸学部7期1部乙類卒)
「教育学部・今は昔物語」(2)
〜師範有造学校から三重県師範学校への道〜の巻
同窓会長 作野史朗(学芸学部 7 期 1 部乙類卒)
明治7年当時、現在の三重県は、旧津市から北部と伊賀・名張地方からなる三重県(旧三重県)と、旧一志群(旧久居市を含む)
から南部と牟婁地方からなる度会県とに分かれていた。前号で触れたように近代学校制度にいち早く反応して、度会県は明治6年に
度会県教員仮講習所を、同7年には度会県師範学校を設立して教員養成を行っていたが、旧三重県でも明治8年、藤堂藩々校の
有造館を利用して師範有造学校を設立したのであった。旧三重県では愛知県の師範学校へ1年に数名を留学させて教員養成を
行っていたが、その程度では教員数は到底間に合わなかったと思われるし、隣の度会県では既に師範学校を設立して教員養成を
行っていたことにも刺激を受けたからでもあろう。
三重大学学芸学部(教育学部)の所在地の地図
(明治10年までの師範有造学校・三重県師範学校の所在地) 2:明治11年から明治21年までの三重県師範学校の所在地
3:明治22年から昭和43年までの三重県師範学校、三重大学学芸学部(教育学部)の所在地。
当初は破線部分も含まれていた。
(昭文社:三重県地図に加筆)
藩校有造館の位置は地図の1に示す通り、現在のNTT西日本三重県支社の辺りの一帯である。藩校有造館は北門が表門(正門)で、 南もんが裏門という構造である。江戸時代以前では、表門は南側、裏門は北側に設置するのが通常であったから、当時としては 特異な設計であった。敷地内には有造館(講堂名で藩校有造館はこの講堂名に由来する)、養正寮(読書、習字、礼節、算術等の教場)、 大成殿(孔子、吉備真備、菅原道真の祭祀殿)、整暇堂(観騎亭、馬見所)、文場(天文、算法、礼節等の教場)、演武場、調馬場等があり、 師範学校は主として文場、講堂等を使っていたようである。養正寮は明治6年2月から、小学第一校(同年7月に安濃津学校と改称) として利用されていたが、明治8年の師範有造学校設立により、師範有造学校附属学校となった。なお、明治11年に、附属学校から 分離独立して、養正学校が設立されたが、校名は養正寮に因んで命名された。この養正学校は、幾変遷を経て現在地(丸の内養正町)に 津市立養正小学校として存在し、師範有造学校附属学校も変遷を繰り返しながら、現在地(観音寺町)に三重大学教育学附属小学校 として存在している。
師範学校は、教員2名、一学年の生徒定員20名、小学校の教育方法を中心に教育を行った。度会県師範学校は、教員数3名、 一学年生徒定員90名で発足し、明治9年には教員8名、生徒153名都なっているから、これに比べると小規模の学校であったことがわかる。 師範有造学校の教員の給与は訓導が月額20円、副教員が10円で、学校運営費は委託金で賄われた。生徒には1人あて月額4円の 給貸金が支給されたが、この給貸金は教員となってから返還することとなっていた。校長の配置は無く、訓導には三重県士族で 東京師範学校に学んだ阿保友一郎が着任した。
明治9年4月18日、度会県と旧三重県とが合併して三重県となった。これに伴い、同年11月、度会県師範学校を山田師範学校と、 師範有造学校を津師範学校と改称した。同年12月、伊勢騒動のあおりを食って山田師範学校が焼失したので、翌10年1月に三重県では、 県令をもって山田師範学校を津師範学校に合併して三重県師範学校とした。発足当時の教員は2等訓導が4名、3等訓導4名の計8人で 構成され、ほかに取締り1名、副教員1名、教員補助1名、雑務係2名が配置された。一学年の生徒定員は92名で、二つの師範学校時代 よりも少なくなっている。発足当初の教育科目は、授業法、教育書、地理、歴史、文学、数学、物理、博物、化学、健全、修身、 経済、記簿、習字、画学、体操であったが、これは明治14年に大幅に改正されることとなる。
当時の我が国の師範学校には、校長職はなく、監事職(2等訓導が兼務)が置かれていたが、明治12年7月の定員化により、 椿蓁一郎が1等訓導に昇格して、初代校長に任命された。師範学校の訓導も同年12年7月には教諭と改称された。明治10年の三重県師範学校 の発足とともに師範学校の教育内容も充実してきたこと、有造館には陸軍の聨隊区司令部も置かれていたこと等々の理由で手狭となったため、 師範学校の移転が計画され、西堀端(地図の2)に土地を求めて移転した。
明治11年に竣工した西堀端の校舎は、中央に木造2階建の本館1棟、向かって左側に木造2階建ての寄宿舎1棟、どう右側に木造一階 建ての附属学校を2棟を配置し、本館玄関前にはソテツが植えられた。
明治11年に西堀端に校舎が建設された時、玄関前に植えられたソテツは、明治22年に丸之内殿町へ 移転した時に本館玄関前に移植。さらに昭和44年に現在地に移転した際には同窓会が現在の状態に移植した。
このソテツは、三重県師範学校(戦後は三重大学学芸学部〜教育学部)が丸之内殿町(地図の3;現在の津市役所、お城西公園の位置)へ、 さらに現在の栗間町屋町にいてんしても、その都度本館玄関前に移植されて現在に至っている。三重県師範学校創設以来137年にわたる 教育学部の歴史をこのソテツが見守ってきた、といえよう。
有造館に置かれていた陸軍の区聨隊司令部は、明治21年に三重県師範学校が西堀端から丸之内殿町に移転した際、西堀端の眉間師範学校跡 に移転し、後に一志群久居町(津市久居野村町の現在の自衛隊駐屯地)に移転して現在に至っている。
お城西公園の明治天皇御臨幸記念碑
明治13年7月6日、三重県師範学校に明治天皇が行幸され、親しくご視察を賜るという名誉に浴した。これを記念して、三重県師範学校 同窓会の学窓会が記念碑を建立したのは、60年後の昭和15年7月のことである。
現在この碑は津市役所に隣接するお城西公園の東端にある。
以下次号。
(学芸部7期1部乙類卒)
「教育学部・今は昔物語」(1)
〜度会県師範学校(山田師範学校)〜の巻
同窓会長 作野史朗(学芸学部 7 期 1 部乙類卒)
三重大学教育学部の歴史は、三重県が現在の形になる以前、三重県と度会県とに分かれていた明治6年まで遡ることが出来る。
明治5年、我が国は西洋文明に追いつくため、近代学校制度を導入した。